社長の想い

世界スケールのものづくりを支えるプラントサポーター。

株式会社 キッカワ 
代表取締役 吉川 青良 氏

プラントの建設から保全、部品製作まで

吉川青良社長率いる「株式会社キッカワ」は、倉敷市を拠点にその石油化学プラントの建設やメンテナンスを手掛ける企業。前社長の吉川巌氏が7トンクレーン1台を携え昭和42(1967)年に設立し、高度成長期の岡山の工業振興の要を担った水島コンビナートの配管・機械据付工事などで受注を拡大。その後、三菱重工や旭化成など名だたる企業との取引を重ね、実績と信頼を礎に米軍基地内の主要設備ローディングアームのメンテナンスにも携わる。

「当社より規模の大きな企業はいくらでもあります。けれど、これだけ重要な案件を、幅広く任されている企業はそう多くない。建設やメンテナンスはもちろん、小さな部品ひとつの製作までを網羅する柔軟で細やかな対応力が『キッカワなら』という信頼に繋がっているのでしょう」。

ほがらかに、そして誇らしげにそう語る吉川社長だが、以前は先代が興したこの事業に「正直、まったく関心がなかった」そうだ。

海外での成功を捨て、社員のもとへ

さかのぼること20数年前、大学を卒業した吉川社長は、語学留学のためアメリカへわたった。その後、縁あって現地で印刷会社を設立。挑戦する者には惜しげなくチャンスが与えられる自由で伸びやかな風土が気質に合っていたのか、事業はすぐに軌道に乗った。当然、そのまま現地に骨をうずめるつもりでいた。

しかし30歳を過ぎたころ、吉川さんのもとに突如、不穏な知らせが届く。
「家業が、存続の危機だ」――。

先代はもともと、堅実さよりも大胆さと勢いで会社を育ててきた人物だった。
景気の良いころはそれでもよかったが、バブルがはじけ取引先が設備投資を抑制するようになると、たちまち経営難に陥った。「もう駄目かもしれない…」。先代の弱気な発言を、長男である吉川さんが聞き流すことなどできるはずもない。

「アメリカでの生活はとても充実していましたが、自分のしたいことだけをし続ける生き方に『このままでいいのか』という想いがないでもなかった。父の会社が危ないと聞いたのは、ちょうどそのころ。父親のもとには、何人も従業員がいる。彼らの生活を守るのは、自分の使命だと思ったんです」。

ポジティブ精神が導いた大逆転

そこからの人生は、まさに波乱万丈だった。帰国後すぐに入社すると、自分に出来ることはとにかく何でも引き受けた。365日休むことなく現場に足を運び、「飯さえ食わせてくれたら、給料はいらない」と、稼いだ利益はすべて社員たちの給料と会社の借金返済に充てた。

ローディングアームのメンテナンスに参入したのもそのころ。ローディングアームとは、原油の荷役を行うプラント装置で、当時、そのメンテナンスはメーカーの独占状態。そこに目を付けた先代は、吉川さんにメーカーOBとタッグを組ませ、寝食協働でそのノウハウを身に着けさせた。

そんながむしゃらな働きの甲斐あって、2005年に他界した先代の莫大な負債もすっかり完済。今では再建計画を渋った銀行さえ借り入れを打診に来るほどまでになったが、ここまでの道のりは決して穏やかではなかった。しかし、吉川社長の口から語られるそのストーリーは、苦労話というよりむしろ、爽快なドラマのよう。

「手掛ける仕事はどれもスケールが大きく、日本のものづくりを支える醍醐味があった。金銭面での苦労はありましたが、それに勝る楽しさ、喜びもありましたから」。

「人ありき」に徹し、地域活性にも一役

実妹で同社常務の吉川若菜さんが「全肯定型」と評するそんな吉川社長の人柄は、事業運営のみならず、社員教育にも表れている。

「当社ならではの技術やノウハウは、事業運営においては確かに強みです。けれど、それを発展させていくのは結局“人”。社員たちが誇りと喜びを持ってのびのびと働ける企業でありたい」と、まずは人間力の醸成に注力。不得手や失敗にも決してあきらめず、個々の個性を尊重しながら、社員一人ひとりが自らの意志と判断で向上できる環境づくりに取り組む。全額会社負担の社員旅行もその一環。前回の旅先にグアムを選んだのも、自らが体験したアメリカの自由で壮大な空気に触れてほしいとの想いがあったからだ。

その想いはさらに地域の人々へも。倉敷といえば美観地区の町並みばかりが取り上げられがちだが、ものづくりの世界においても十分に世界に誇れる技術・製品がある。ラジオ番組や新聞など本業とは直接関係のない事業を手掛けるのも、知られざる地元の魅力を掘り起こすことで、地域を元気にしたいと考えているからだ。

社員のために。
地域の人々のために。

アメリカでの成功を捨てたあの決意の時から、吉川社長の想いはいつも「人ありき」の信念とともにある。